昭和55年09月08日 朝の御理解
御理解 第98節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」
落ち着いて静かに願うとか、心は神信心の定規とかと、教えてございますけれども、確かにあのう心は神信心の定規ですから、自分で今自分の信心がどの程度に、おかげを受けておるかという事は、自分の心を事ある度に思うてみれば分かるのですね。昨日ある方がお参り親子4人連れで参って来ました。主人になる人が胸の病気で津屋崎の療養所に入っとります。ほれでもう先々月からだったでしょうか、まぁ月に一回ぐらい参って来るんです。子供達はまだそうですねぇ、三年生か小学校の四年生ぐらいじゃないか。
それを頭にこう二つ節ぐらいで、三人子供さんたちがおります。お婆ちゃんが熱心に信心しますから、その神様にお縋りせろといわれて、子供達は天津祝詞を三人ながら覚えてね、学校行きがけにちゃんと、その御祈念をして行くそうです天津祝詞を唱えて。まぁお父さんが一日も早う全快するようにという訳でしょう。却って子供達の方が、けれどもまぁいたいけない子供達が親の事を一生懸命願う。もうそれだけでも神様は聞いて下さるだろうとこう思うんですけれども。
まぁお母さんの方にも、昨日一口御理解をと思いましたから、神様にお願いをさせて頂きましたら、花をこのくらいばっかり一束頂いて、それをビニールの袋にこう包み込んでしまっておるとこを頂いいて。そしてその御神願を頂きながら、あらぁこげな事して持って帰ったら、もう持って帰る間にあの花がおむれっしまうだろう、というような感じでした。そして御理解にいくらどんなに花の材料を与えてもね、それを活けこなし得なかったら、話して聞かせても同んなじだとこういうのです。
こうやって朝の御祈念などは大勢の人が、まぁ聞いて下さるから、中にははぁもういちいち、あのうはぁそうだそうだという風に頂いて、そしてそれを持って帰って持って帰ってというか、生活の上にそれを活かして行く人。けれども唯聞いておるというだけの人、詳しくなって行くというだけの人、全然先生のお話は分からなかったという人もありましょうね。どういう意味か分からなかったとね。
けれども段々それがあのう頂いておる内に、信心の何たるかということも分かって来るし、又はそれをお話を生活の上に生かして行くということが、こよない信心の喜びであり、又は驚きでありというような体験が伴うて来る話だと思うて頂くと、それこそ今日はどこをどう頂こうかと一生懸命頂く訳ね。いうならばお話を頂いて感じるところがある。感じるということは、もう既に神様と交流のルートが出けたようなもんであるね。
だから何かを頂いて帰って、それを実験し実証して行かなければ、まぁいうなら馬鹿らしいんだけれども、初めの間はなかなか話が身に付きません、耳に入りません。だから昨日はその方達に、まぁあの子供達とだけ話してね、そのお母さんに話を伝える事をは致しませんでした、無駄ですからね。持って帰っても生かす術を知らんのですから。何でもそうです信心の稽古もお花の稽古も同じ事。頂いたお話をどのように生け上げるかということなんです。
自分ながらよう活かったなぁね。人が見ても素晴らしいなぁと。唯その花をなら持って帰ってボンとこ、花壷にども入れただけではね、却って見苦しいぐらいな事。ですからその花を活かし、まぁおむらかしてしもうて無駄にしたんでは、やはり神様のお話を伝えて下さらないね。まぁ段々お参りをして来よる内に、まぁ何かの調子にお話が分かって来るように段々なるだろうと、まぁいう神様のまぁ後ろから祈って下さっとるようなものは感ずるけれども、なら昨日お話を致しませんでしたね。
ですからなら今日の御理解。心は信心の定規じゃによってと言われるがね、御理解を頂いて果たして今日の御理解の、どこをどう頂いたかも分かってない。今日の御理解はどげな御理解じゃったのちいうちから、帰りがけ聞いて行くごたることじゃ出けん。もうどこからでも良いから、今日の御理解の中からここを頂こうとする、それが心の中に生き生きとして、それをなら日々の生活の上に現して行く、というおかげを頂かなければ、話を聞いて助かるということにはなって来ない。
ただお願いをしておかげを頂くというおかげはね、これは大した事じゃない。話を聞いて助かるというのは、自分の心が神様に向かう手立てを実験したり、又は手立てを行じて頂くおかげですからね、これは積もり積もっておかげになる。今日私はこの感じの七という字を三つこう書きますと、喜びという字になりますね。だからここで七のお知らせを頂いたり、御神米が七体下がったり時にゃ、そこをちょっとお前改まらなければという時に頂くんです。そすと次の八の字になるんですよ。
「七という字をちょっとこう真っ直ぐにすると、プラスという字になるでしょうがね。ですから七の字のお知らせはね、改まれということなんです。そのいうならば七の字が三つで喜びであるように、そういうちょっとした改まるでも続けて行くうちに、いうならばそれが信心の徳になるのですね。おかげの受け物になるのです。改まって頂くおかげは本当なおかげです。お徳になって行くおかげです。教えを頂いて教えを守らせてもろうて、頂けれるおかげもお徳になって行くのです。
これが積もり積もってお徳になって行くのです。お願いしておかげを頂いたちゅうのは、ただおかげを頂いたということだけですからね、言うなら桂先生じゃないけれども、取次者にね、徳を受けてさっさとおかげを渡しておけと。信心は出けんでもどうぞお願いしますというお願いを、それは神様にある意味においての借金になるようなもんだからね、この世で払えん時はあの世までも取りに行ってやるぞと、あのう仰ったということでございます神様がね。
だからどうぞどうぞと言うて頂いたおかげは、だから有り難いことですけれども、それは徳にも力にもなりませんね。けれども誰でもそこから入って行く訳ですけれども、どうしても話を頂いて実行して、生活の上に現して現れて来るおかげを願わなきゃならん。同時にお話を頂きよると、ははぁこげなこっじゃいかんなと感じたところを、いわば七の字をこう、ちょっと真っ直ぐするとプラスになるように、改まりに改まってその改まりが三つ貯まると、もう喜びの徳になるのです。
心は信心の定規じゃによってと、そういう信心を繰り返して行くうちにね、今までの自分の心の状態と変わって来るんです段々。昨日も総代会で、まぁお話聞いて頂いた事でしたけれども、どうでも一つあのう困ったなとか、難儀だなとこう思う時に元気の出る信心。はぁ困ったなこの難儀だからこそ、神様にお参りしよるとというのではなくてね、難儀をそこに感ずる時には、その難儀を感ずると同時にね、よしこれで一徳受けるぞといったような気持ちで元気が出る。
この信心なら必ずお徳になります。難儀を難儀とだけにして、そしてお願いしますお願いしますでおかげを頂いた分では、それはお徳にゃなりませんね。それは産み成すという事にならないからです。頂く信心から産み成す信心といわれますね。産み成す信心とは、難儀をそこに感じた時に、そのね元気を出してそれによって、一徳を受けようというような、いうならその難儀のおかげで信心が出けますと、いった様な信心からでないと、お徳にゃなりません。
いつも皆さんに聞いて頂くように、もう本当に借金の断りから断りにやらせて頂かなきゃならん。もうそれは払う目処がないのですからねうん。それでもやっぱり先方に行ったらどうか言わなきゃ、払えんだけじゃあんまり横着なようですから、神様一週間待って下さい十日待って下さいと言え、そして断りに行けとこう頂くから、もう普通ならほうからかしといて行かれる段じゃないけれども、まぁ一週間毎十日毎に断りに行きます。もうそれがもう度重なって参りますとですね。
もう本当にまた嘘を言いに来たかという様な事でした。もう本当にそれはもうどげん思うても、断りにはもう行かれない。そういう時になるほど四百四病の病より、貧より辛いものはないというは、そういう時の事をいうのであろうと思うくらいに辛いです、借金の断りというものは。取りに来られてからもうすいませんというなら、まだええですもんねどげんいわれても。けれどもそれを断り行かんならんというぐらい難しい事ないです。二遍三遍ならね、断りに行けますけども、同じ事をいうて断るのですから。
しかも断り行っておるのがなら十日待って下さいというて、十日後に払える目処も何もないのですからね。そういう或日にあの相撲取りがもうそれこそ投げたり転ばされたりして、あのう修行しておる話を大城の停留所で聞かせてもらった時にです、私の心の中にはぁこりゃ神様がね鍛えて下さってあるんだなと思うた。これはもう末は横綱か大関かという、師匠の見込みがあるからこそ、もうそれこそ立ちも這いも出けんくらいに、鍛えられておるんだと思うた時に、どっから湧いて来るか分からんけれども元気が出た。
ただ泣く泣く辛抱しながらです、もう神様が行けと仰るから行くというて、あのう借金の断りに行く間は、まだ徳にはならんです。けれどもそうしてもうそれこそ銀行に金預けげ行くごたる気持ちで、その借金の断りに行ったら「もう大坪さんこれきりでよかばの」ち言わっしゃった向こうからね。そして「あんたが出けた時、払い来てくれんの」というようなおかげになって来とったです。いかにこちらの心がどういう中にあっても、そういう言うならば元気な心が、出らなければならんかということが分かるんです。
昨日新田原の方から参って来ます婦人が熱心に参って来ます。もう本当に難儀な中にあってから参って来る時にゃ、周囲近所の難儀な人達のお初穂を、いっぱい託かって参って来るです。ただ今朝方からお夢を頂いて、学校じゃないけども学校みたいなところから、一歩外へ出らせて頂いたら、もう外はもう真っ白い銀世界、雪がいっぱい降っておったという、あのうお知らせを頂きましたとこういう。今のあんたの姿じゃろうなとこういうたことでした。学校というのはまぁ信心の稽古を一生懸命しておる。
一歩外へ出りゃもう難儀がそこに待つ。もうそれこそ極寒のあの寒さがある訳なんだけれども、こういう時にそれこそじぃっとしとったら凍え死んでしまうごとある。けれどもそれこそ一生懸命の働き、動きというものが出来て来る。不思議なんです心の中にそういう難儀な中にあっても、生き生きとした心が生まれて来る時にゃもう、それこそもうあのう動きが出来ます。もう寒い段じゃありません。それこそ一枚だん脱ごうごとぽっぽして来るです体が、例えば雪の日であっても。
だからそういう信心を元気な心で信心するというのです。そこから産み成されて来るおかげはね、もう大坪さん断りに来て貰わんでええよ、もうあんたが出来る時に払って下さいと、いう様なおかげになって来る訳です。それからまぁ人が段々助かる様になって、2、3年もしてからだったでしょうかね、その方が家移りしてどこどこにおられるという事が分かったから、高橋さんにお願いしてそのお礼に行った事がございますね。
だからそういう難儀な中に難儀だけを感じながら、どうぞお願いします。もう苦しかけんでお参りしよるとと言うのでは、おかげは頂いてもお徳にならん。折角ならばそこに元気の出る信心させてもろうて、おかげ頂いて。そこでなら難儀の時にです、自分の心の中に、どういう心の状態かということを見る事が、和賀心を定規に計ったおるようなもんです。はぁ自分なぁこの位な事で、もう胸がくぅっとなってしもうとる。この位な事でもう心が真っ黒になってしもうておる。
たったこの位な事で腹が立って腹が立ってたまらん、信心の定規ですね。だからそれが段々本当なものになって行くに従って、普通では腹を立てねばならない事に有り難いと言うて、お礼のいう心が生まれておる。じゅつないどころか却ってお礼心が生まれておる。そういうことを、私は自分の心の中の信心の定規じゃによってと仰る、定規に推し量ってその心の状態が少しでも変わって行く事のために、いよいよね七の字を三ついうならばずっと改まれば良いものを、改まらんで放任しておるそれを改めて行く。
信心の喜びが頂ける。その喜びを持って見る喜びを持って聞く、喜びを持って行うから、生き生きとした喜びも生き生きとした、いうなら動きも出けるのです。初めてそれがおかげじゃない、もうお徳になる信心。だからはぁこういう心の状態で、行く事がお徳を受けることだなぁと分かって来ると、信心がどういう難儀な目にあっても、楽しゅうなって来るですよね。
どうぞ。